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宝塚の民話・第2集の1

ID番号 1003716 更新日  平成26年11月10日  印刷

毫摂寺の亀姫(ごうしょうじのかめひめ)

今から四百年(よんひゃくねん)ほど前の戦乱(せんらん)の時代(じだい)、小浜(こはま)の毫摂寺(ごうしょうじ)にまつわる悲(かな)しい物語(ものがたり)が残(のこ)っています。毫摂寺は浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅうほんがんじは)の大きなお寺で、「小浜御坊(こはまごぼう)」とも呼ばれ、大名(だいみょう)などにも小浜へ来た時などに宿(やど)としてよく使われていました。
ある日のこと、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)(注1)という若者(わかもの)の一行(いっこう)がこの寺をおとずれました。「有馬温泉(ありまおんせん)で湯治(とうじ)をしようと朝(あさ)早く京都(きょうと)を出発(しゅっぱつ)したのだが、ここ小浜にさしかかったところで、日が暮(く)れた。一晩(ひとばん)世話(せわ)になるぞ。」
毫摂寺の住職(じゅうしょく)は秀次の一行をもてなし、次女(じじょ)の亀姫(かめひめ)をあいさつにうかがわせました。
秀次は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)(注2)の姉(あね)の子で、幼名(ようみょう)を孫七郎(まごしちろう)といいました。実子(じっし)に恵(めぐ)まれなかった秀吉が、孫七郎に跡(あと)を継(つ)がせようと考(かんが)えていたところ、孫七郎は紀州(きしゅう)や四国のいくさで、大変な働きをして武名(ぶめい)をあげました。これならよかろうと、名を秀次と改(あらた)めさせ、朝廷(ちょうてい)に願(ねが)い出て従四位下右近中将(じゅしいのげうこんのちゅうじょう)とした上で、正式(せいしき)に自分(じぶん)の跡取り(あととり)として家臣(かしん)に披露(ひろう)しました。
みるみるうちに出世(しゅっせ)した秀次は若(わか)かったこともあり、秀吉の目を盗(ぬす)んで、たくさんの側室(そくしつ)を持(も)ったり、遊(あそ)びふけっては、悪(わる)ふざけをする毎日(まいにち)でした。
今日(きょう)も有馬温泉に湯浴み(ゆあみ)に行く途中(とちゅう)、ここ毫摂寺に立ち寄(よ)ったのです。
そんな折(おり)、亀姫の美(うつく)しさに心(こころ)をうばわれた秀次は、ぜひとも姫を側室に迎(むか)えたいと思いさっそく家来(けらい)を住職のところへ遣(つか)わせました。
住職はこれは困(こま)ったことになったと悩(なや)みました。しかし、時(とき)の関白(かんぱく)・秀吉の子からの縁談(えんだん)です。「娘(むすめ)にとって悪(わる)い話(はなし)ではなかろう」と思いなおし、亀姫に話しました。
「父上(ちちうえ)が良(よ)しと思われるのでしたら、私(わたし)は秀次様のところへまいります」と。
亀姫は数日(すうじつ)のうちに京都の秀次の館(やかた)へ移(うつ)り住(す)みました。
乱暴者(らんぼうもの)とうわさされる秀次でしたが、文学(ぶんがく)に優(すぐ)れていました。
秀次は同(おな)じように文学の才能(さいのう)を持(も)つ亀姫を大変(たいへん)いとおしく思い、実家(じっか)の地名(ちめい)をとって「小浜の局(つぼね)」と名のらせ、亀姫を大切(たいせつ)にしました。そして、その後(ご)しばらくの間(あいだ)は、平和(へいわ)で楽(たの)しい日々(ひび)が続(つづ)きました。

ところが、豊臣秀吉とその側室・淀殿(よどどの)(注3)との間に、待望(たいぼう)の実子(じっし)・秀頼(ひでより)(注4)が生まれると、秀吉の心は秀頼のことでいっぱいです。明けても暮(く)れても秀頼のことばかり。その内、秀頼の成長(せいちょう)とともに、養子(ようし)の秀次がうとましくなってきました。

毫摂寺の亀姫の挿し絵

その頃(ころ)、すでに関白の位(くらい)になっていた秀次でしたが、実子・秀頼が生まれ、秀吉の気持ちが自分(じぶん)から離(はな)れていくのを感(かん)じ、不安(ふあん)でしかたありません。
日毎(ひごと)にその気持ちはつのるばかり。そんなある夜(よる)、秀次は酒(さけ)の勢(いきお)いもあり、ささいなことから通(とお)りがかりの人たちを切(き)り捨(す)ててしまいました。
戦国時代(せんごくじだい)の乱(みだ)れのなかで、毎夜(まいよ)のように辻斬(つじぎ)りがあった京(きょう)の町の人々は、すべてが秀次の仕業(しわざ)だと思い、彼(かれ)のことを「摂政(せっしょう)関白」をもじって「殺生(せっしょう)関白」と呼(よ)んでさげすみました。

そのうわさはすぐに秀吉の耳(みみ)に入りました。
秀次の存在(そんざい)をうとましく思っていた秀吉は「秀次に謀反(むほん)の疑(うたが)いあり」として、家臣に秀次の切腹(せっぷく)と一族(いちぞく)の皆殺(みなごろ)しを命じました。
秀次は数日(すうじつ)のうちに高野山(こうやさん)で切腹させられました。しかし、哀(あわ)れなのは罪(つみ)のない側室や子どもたちです。この時代(じだい)では恨(うら)みによって謀反が起(お)こることをおそれて、一族を皆殺しにするのがならいでした。
八月(はちがつ)の暑(あつ)い日、京都の三条河原(さんじょうがわら)に集(あつ)められた秀次の妻(つま)や側室、子どもたち三十数名(さんじゅうすうめい)が、竹矢来(たけやらい)(注5)の内に引(ひ)き立てられ、うわさを聞(き)いてやってきた人々がびっしりと見守(みまも)るなかで次々(つぎつぎ)に首(くび)をはねられました。恐(おそ)ろしさに泣(な)き叫(さけ)び、逃げまどう子どもたちまで、秀吉の家臣(かしん)たちの手(て)で切り捨(す)てられたほど悲惨(ひさん)なものだったそうです。
小浜の局・亀姫は「戦国の世(よ)に生まれさえしなければ、雑草(ざっそう)のようにめだたない自分(じぶん)であったなら、私の運命(うんめい)も変(か)わっていたものを。父上、母上(ははうえ)」と心でつぶやき、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を唱(とな)えました。
人々は「あれほど美しい方(かた)までが、哀れなものよ」と嘆願(たんがん)の声(こえ)をあげましたが、一瞬(いっしゅん)のうちに首がはねられ、殺されてしまったのです。
そして、三条河原には大きな穴(あな)が掘(ほ)られ、殺された人々がここへ葬(ほうむ)られました。そして、その上に高(たか)く土が盛(も)られ、「秀次悪逆塚(あくぎゃくづか)」と刻(きざ)まれた墓石(はかいし)が置(お)かれたということです。
その上、亀姫の実家である毫摂寺まで、秀吉の家来たちの手で火がかけられ、ことごとく焼(や)かれてしまったということです。

注釈
(注1)豊臣秀次(とよとみひでつぐ)
1568~1595
父は三好吉房、母は秀吉の姉・日秀で秀吉の甥にあたる。秀吉の長男鶴松の死後、養子となり、関白となるが、次男秀頼の誕生後、高野山に追放され、自害を命じられ切腹した。

(注2)豊臣秀吉(とよとみひでよし)
1536~1598、安土桃山時代の武将。
織田信長に仕え、頭角を現し木下藤吉郎・羽柴秀吉と名のる。1573年近江の浅井長政を破り、18万石の大名となり筑前守となる。その後活躍を続け、主君・信長の死後、京都の山崎で明智光秀を破り、次第に勢力を伸ばし、天下を統一する。

(注3)淀殿(よどぎみ)
?~1615
浅井長政と織田信長の妹お市との間の子。幼名は茶々。長政の没後、母の再婚先の柴田勝家の城、越前北ノ庄城に移るが、落城後秀吉に保護され、側室となる。大坂夏の陣で子の秀頼とともに自害した。

(注4)竹矢来(たけやらい)
竹で編んだ垣根。

挿し絵は、市内在住・在学の市民、児童・生徒から募集したものです。

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