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宝塚の民話・第1集の15

ID番号 1003703 更新日  平成26年11月10日  印刷

普明寺の龍馬神(ふみょうじのりゅうばしん)

宝塚の北部波豆の里(はづのさと)は摂津多田源氏(せっつただげんじ)が住んでいた所です。
美しく木々が紅葉し果実が熟(う)れ、山の香がただようなかを、一人の若武者が家来を連れて秋の野山を駆(か)けぬけていきました。
若者は多田の荘(そう)に住まいを構える源満仲(みなもとのみつなか)(注1)、その人です。 満仲はすぐれた武将で、かずかずの手柄を立て、その名は遠く各地に知られていました。
また、自分の領地のまつりごとにも熱心で、いつも決まった時間に巡視(じゅんし)の馬を走らせていました。

その日は、多田の里を離れ、渓流(けいりゅう)に沿って山から谷へと馬を走らせているうちに、ふと気づくと家来とはぐれ、ただ一人、山の奥深く迷い込んでいました。
日は暮れかかるし、あたりは薄い(うす)い墨(すみ)を流したように、もやに包まれ始めました。
「しかたがない。今日はここで野宿(のじゅく)としよう。」
満仲は大木の根元に馬の鞍(くら)を降ろし、横になりました。

普明寺の龍馬神の挿し絵

どれほどの時間がたったでしょう。昼の疲れでぐっすりと寝込んでいた満仲は、女の声で目を覚ましました。
「私はこのあたりに住む千年のよわいを経(へ)た龍女(りゅうじょ)でございます。あなた様は武勇の誉(ほま)れ高い源満仲様とお見受けし、お願いがございます。この山の麓(ふもと)にある大沼に大蛇(だいじゃ)が住みついているのですが、この大蛇はけだものは手あたり次第(しだい)に飲み込んでしまうわ、暴(あば)れまわるわで、ホトホト困っております。どうぞ大蛇を退治(たいじ)していただけませぬか。
しかしながら、狂暴(きょうぼう)な大蛇のこと、どのような手を使うか知れません。どうぞ私の馬をお使い下さいませ。」とそう言うなり、姿をスッと消してしまいました。

ガバッと跳(は)ねおきた満仲が、目を凝(こ)らして見ると、闇(やみ)の中に一頭の立派な馬が立っていました。「これは夢ではなさそうだ。」
よく見つめると、何とその馬は長い尾を持ち、二本の角(つの)を持った、珍(めずらし)い馬でした。
試(ため)しにこの馬に乗って見ると、満仲の意(い)のままに走り、単に走るだけでなく宙(ちゅう)を駆(か)けることもできました。その身の軽(かろ)やかなこと。 満仲はたいそうこの馬が気に入り、大蛇を退治する勇気がわいて来ました。


「それ、行くぞ。」馬に一鞭(ひとむち)当てると、大蛇が住むという大沼の上に来た満仲は、水面を見すえ、ギュッと弓をしぼるや、沼の中央をめがけヒュッと矢を放(はな)ちました。
その瞬間(しゅんかん)、沼がパッと赤く染まり、大木のような大蛇が、ものすごい水しぶきと共に宙に舞い上がりました。
ランランと目を見開き、大きく開いた口からは、真っ赤(まっか)な火炎(かえん)を満仲に吐(は)きかけて来ます。満仲は身をひるがえすやいなや、右の目をめがけて矢を放ち、続けざまに左の目をも射抜(いぬ)きました。
のたうちまわって襲(おそ)いかかる大蛇。

有角馬(ゆうかくば=龍馬)(注2)はすばやく身をかわし、大蛇の頭の上を飛びこえました。
その瞬間、満仲は喉仏(のどぼとけ)をめがけて、もう一本の矢を放ちました。

それでも襲いかかる大蛇。
とどめ、とばかりに満仲は、頭上をめがけて力いっぱいに太刀(たち)を振り降ろしました。
さすがの大蛇もそれまででした。一声、悲鳴と思われる叫び声(さけびごえ)を上げるや、もんどりうって、沼の底に沈んで行きました。
「さすが、武勇の誉れ高い満仲様。」どこにいたのか、龍女が現れ、「これで安心して暮らすことができます。お礼にこの龍馬を差し上げましょう。この摂津の国を守るため、御役立て下さい。」というなり、龍女はどこかへ消えてしまいました。

心配しながら満仲の帰りを待ちわびていた家来達は、龍馬を連れて帰って来た満仲を見て、驚(おどろ)きかつ喜びました。
そして、満仲の話を聞き、益々すばらしい自分達の主人に誇りを覚えました。
満仲はその後、龍馬を大切にし、領内(りょうない)の視察(しさつ)もこれまで以上に熱心に行い、政事(まつりごと)にも心をくだきましたので、波豆(はず)の里は実りの多い平和な里として栄えました。
また、満仲の武勇伝(ぶゆうでん)は彼の武将としての人柄と共に、広く人々に語り継(つ)がれていきました。
しかし、満仲もよるとしなみには勝てず、84歳でこの世を去(さ)りました。

家臣(かしん)達は、相談の上、主人をなくした龍馬を昔住んでいたといわれる多田の聖山(せいざん)に放ちました。
しばらくして、様子を見に来た家臣は、長い尾をなびかせ、木々の間をかけ抜けていく龍馬を見て「あれほど長いしっぽで、木立(こだ)ちの間をかけめぐるのは不便であろう。」と尾を束(たば)ね、短くしてやりました。
ところがしばらくすると、あれほど強くすばやかった龍馬は、いとも簡単に野生の馬に食い殺されてしまったのです。家来達は悔(くや)みましたが、あとの祭りです。
家臣たちは、龍馬の亡き殻(なきがら)を、滝の落ちる美しい場所に丁重(ていちょう)に葬(ほおむ)り、その場所に塚を建てました。その塚を「駒塚(こまづか)」と呼び、近くに落ちる滝を「駒が滝(こまがたき)」と言うようになったそうです。


それから500年ほどの年月がすぎたころのことです。
波豆(はず)の普明寺(ふみょうじ)の住職に、玉岩和尚(ぎょくがんおしょう)という人がいました。
ある晩のこと、異様(いよう)に思われるほどの風が吹き荒れました。
寺の見回りをしていた和尚は駒塚のある山の方で、不思議(ふしぎ)な光が一筋たっているのを見ました。
「これは何かのお告(つ)げかも知れない。」と、和尚は光を求めて山中に入り、駒塚の前に来ると、供養(くよう)のためのお経(きょう)を唱(とな)えました。
そうし始めるやいなや、大粒の雨が降り始め、またたく間(ま)に大地を叩(たた)きつけるような激(はげ)しい雨に変わりました。
玉岩和尚は、負けじとばかり大地を踏(ふ)みしめ、お経を唱え続けました。すると、突然(とつぜん)、馬のいな鳴きにも似た落雷(らくらい)と共に、駒塚がまっ双(ふた)つに割れ、龍馬の首が飛び出しました。
玉岩和尚は、腰を抜かさんばかりに驚(おどろ)きましたが、「この馬の首は、満仲公(みつなかこう)の武伝(ぶでん)に伝えられた大蛇退治(だいじゃたいじ)の際の、龍馬の首に違(ちが)いない。雲を呼び、嵐を起こして天に昇(のぼ)ろうとしたのであろう。」と、寺に持ち帰り丁寧(ていねい)にとむらいました。そして、龍馬の首を本堂にお祀(まつ)りし、里の安泰(あんたい)を祈願(きがん)しました。

その翌年(よくねん)のこと、波豆の里はひどい旱魃(かんばつ)にみまわれました。
これ以上、雨が降らなければ、作物は全滅(ぜんめつ)してしまうところでした。
「そうだ。あれほどの雷雨(らいう)の中から飛び出した龍馬が、普明寺にある。雨乞(あまご)いをしてみよう。」と里の人達はすがる思いで普明寺に行き、雨乞いの呪文(じゅもん)を唱(とな)えました。
すると、たちまち雲が湧(わ)き、大粒の雨が降り出し、枯(か)れていた田畑(たはた)は潤(うるお)い、青々と生きかえりました。
「これぞまさしく、八大龍王(はちだいりゅうおう)(注3)の使いと言われた雨を呼ぶ龍馬神(りゅうばしん)に違いない。」と喜び合い、龍馬神に対する信仰(しんこう)を篤(あつ)くし、里の宝にしたそうです。
この龍馬神の霊験(れいけん)はあらたかで、その後、雨乞いの神事(しんじ)にもしばしば使われ、近年では昭和13年と23年の旱魃(かんばつ)にも行われ、必ず雨が降り村を救ったそうです。
その雨乞いの呪文とは、
「トジト ソロソロ シュリシュリ スリョスリョ ナギャナン ジャバジャバ ジビジビジョブジョブ……………」と言うのだそうですが、だれか試(ため)して見ますか。

注釈
(注1)源満仲(みなもとのみつなか)
913~997、平安時代の武将。
摂津多田に居を構え、多田源氏と称した。狩猟を好み、勇猛果敢(ゆうもうかかん)であったと云われる。
多田院(ただいん。現在の多田神社〔川西市〕)を創設し、そこに葬られる。

(注2)有角馬(ゆうかくば)
角(つの)のある伝説上の馬で、飛ぶことができる馬の呼称。

(注3)
八大龍王(はちだいりゅうおう)
法華経(ほけきょう)の会座に列した護法の龍神。八大龍神ともいわれる。

挿し絵は、市内在住・在学の市民、児童・生徒から募集したものです。

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