沿革

ID番号 6000118 更新日  2023年4月24日

印刷大きな文字で印刷

「宝塚第二中学校」ってないの?

 本校は戦後の昭和22年4月に新制中学校として開校しています。しかし、この時の名称は「良元村立宝塚第一中学校」。そう、まだ「宝塚市」ではないのです。戦後の宝塚は「小浜村・良元村・長尾村・西谷村」の四村からなり、急激に宅地が増え人口増加に伴う財政強化や教育環境等の充実のため「小浜村」がまず「宝塚町」になり、ついで「宝塚町」と「良元村」が昭和29年4月1日に合併し「宝塚市」となりました。さらに遡ると武庫川を挟むこの地域は、大正時代初期には温泉を中心とした街が形成され、良元村伊孑志より分離した旧温泉地区の良元村宝塚が新温泉地区の小浜と度々合併の話はあったものの、両者を結ぶ武庫川は一度豪雨で氾濫すると橋梁を失うなど困難を極めていたそうです。(因みに「逆瀬川」は武庫川の氾濫時に逆流するからその名がついたとされています。)そんな中、戦後の町村合併時には鳴尾地区が尼崎市と西宮市との狭間で揺れ動いたと同時に、良元村も一度は小浜村(宝塚町)と合併して「宝塚市政」を施行することを村民投票で決めましたが、政治的ゴタゴタで西宮市と合併する議案が出てしまい、再び村民投票を行った結果、やはり宝塚市をつくる方向に戻っていきました。その時、良元村長で尽力された岡田幾さんは、著名な俳人であり全国で初めての女性村長だった人です。

 その後は、昭和30年3月に長尾村、西谷村を編入することに至りましたが、合併前に設立したその当時の中学校は「小浜村立宝塚中学校」いまの宝塚中と「良元村立宝塚第一中学校」いまの本校の2校が、それぞれ宝塚市立中学校になったのです。本校開校時は小林西山(今の西山小学校)に建てられましたが、生徒激増に伴い昭和36年に宝梅中学校を分離開校することとなり、本校は鹿塩高丸1-644(今の「うぐいす台」)に新築移転するが決定され、昭和43年に竣工されました。

 なお、本校の校歌が春夏秋冬に分かれた四番まであるのと同時に三番の秋が短調になっているのも稀なる校歌として誇りに思ってほしいのですが、この歌詞に出てくる「宝梅園」「紅葉谷」なる地名は、開校当時の景色に由来するものが見受けられますね。

添付ファイル

PDF形式のファイルをご利用するためには「Adobe(R) Reader」が必要です。お持ちでない方は、Adobeのサイトからダウンロード(無償)してください。Adobeのサイトへ新しいウィンドウでリンクします。