坂上頼泰公(木接太夫)に宝塚市特別名誉市民の称号を贈呈しました
接ぎ木の技術を発明した郷土の偉人が宝塚市特別名誉市民になりました
坂上頼泰(さかのうえよりやす)公は、今から約500年前の永正12年(1515年)に、山本郷(現在の宝塚市山本地区)に生まれ、花木を育培する中で、植物の品質向上を図る画期的な技術となる「接ぎ木」の技術を発明し、園芸界に不滅の功績を残した人です。
その功績を讃え、坂上頼泰公(木接太夫)に宝塚市特別名誉市民の称号を平成29年(2017年)3月に贈呈しました。
木接太夫の功績は、小学校3.4年生の社会科副読本「わたしたちのまち宝塚」でも紹介されており、宝塚市の子どもたちにも親しまれています。
平成17年(2005年)9月に発行しました『宝塚市大事典』P.469には、次のように紹介されています。
~ 木接太夫 きつぎだゆう (坂上頼泰) ~
源氏の祖、源満仲が摂津守に任じられ、多田(川西市)に政所を設けて本拠地にし、有力な御家人を周辺に配置したが、山本郷には坂上一族が住んだ。
同郷の開祖「坂上頼次」から34代目の坂上頼泰は、足利13代将軍義輝に仕えたが、多田御家人の一人、塩川伯耆守に侵略され、坂上一族は衰微した。頼泰は退隠して山本で余生を園芸にかけたが、接ぎ木の方法を発明した。接ぎ木は、強健な台木に良質の果物や花木を接ぐことによって結実を早め、しかも良質で多くの実を結ばせるものである。
豊臣秀吉がこれを聞き大坂城で頼泰を引見し、技術のすばらしさに「木接太夫」の称号を与えた。
明治の終わり頃、地元の有志がこの木接太夫の業績を明らかにしようと明治45年(1912年)に木接太夫彰徳会をつくり、同年5月に彰徳碑の建設に取りかかった。大正元年(1912年)11月に竣工。大正2年(1913年)2月には除幕式を行った。
当初、碑の所在地は山本中2丁目にあったが、昭和22年(1947年)1月、山本の青年層が山本園芸の活性化のため、阪急山本駅前広場にこれを移すことを計画。地元と図り、同年5月、現在の設置場所に移転して今日に至っている。なお、碑の高さは5.3m、幅1.2m、厚さ36cmである。 (中央図書館)
坂上頼泰公(木接太夫)の略歴
永正12年(1515年)
山本郷(現在の宝塚市山本地区)に生まれる。
時期の詳細不明
第34代山本荘司となる。
郷士となる。
一時豊臣秀吉の親衛の任に就く。
退隠し町人となり、山本膳太夫と号す。
山本一帯の人別帳を扱う大庄屋となる。
花木を育培する一方、酒造、銀鉱採掘、両替業などを営む。
文禄2年(1593年)
接ぎ木の術に優れていたため、豊臣秀吉から「木接太夫」の称号を与えられる。
慶長2年(1597年)
4月2日に逝去 享年83歳
接ぎ木とは
接ぎ木は二つ以上の植物をつなぎ合わせて一つの植物とすることです。
このとき、上になる植物を「穂木(接ぎ穂)」、下になる植物を「台木」といいます。
接ぎ木は一般的に、穂木の繁殖を目的としており、結実の早期化や病害虫への耐性などを獲得することができます。
接ぎ木の様々な用途
接ぎ木は現代の農業にかかせない技術です!

(1)効率的な増殖(主に新品種など)
収穫や開花までの生長期間を短縮することができます。
(例)夏みかん・・・カラタチの台木に接ぎ木
牡丹・・・・・シャクヤクの台木に接ぎ木
※宝塚市北部西谷地域にある長谷牡丹園の見ごろは4月下旬~5月上旬です!
(2)病害虫への耐性の獲得
病害虫のリスクを減らし生育・生産を安定させます。
(例)スイカ・・・かぼちゃなどの台木に接ぎ木
(3)品質の向上
収穫量や開花量を増加させることができます。
(例)バラ・・・ノイバラの台木に接ぎ木
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