国指定史跡 中山荘園古墳

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ID番号 1003723 更新日  2020年2月26日

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国指定史跡 中山荘園古墳

  • 所在地:宝塚市中山荘園12-298ほか
  • 所有者:宝塚市
  • 指定年月日:平成11年(1999年)1月28日
  • 指定理由:7世紀中頃に築造されたと推定される、当時の天皇陵と共通する八角形の墳丘を持つ古墳である。
    天皇陵以外の数少ない八角墳のなかでも全体像が明確で遺存状況も良好であり、飛鳥時代の墓制を考える上で重要な遺跡である。

中山荘園古墳は昭和57(1982)年に発見されました。発掘調査で古墳のまわりを石列が八角形にめぐり、南側には、お祀りをしたと思われる施設があることがわかりました。

この古墳は飛鳥時代(7世紀中ごろ)に築かれたと考えられています。

当時の天皇陵とも共通する八角形の墳丘で、全体の形が明らかな数少ないものとして、古墳の変化を研究する上で大変重要であり、国の史跡に指定されています。

発掘当時の中山荘園古墳
発掘当時の中山荘園古墳(上空より)
発掘当時の憤丘と石室の写真
発掘当時の墳丘と石室

概要

中山荘園古墳は宝塚市中山荘園12の地にあり、昭和58年(1983年)3月に集合住宅の建設に先立ち発掘調査を実施しました。

この古墳は、長尾山丘陵の西部に位置し、南に伸びた尾根の突端部に位置しています。本古墳は中山寺白鳥塚古墳(兵庫県指定史跡)の西約400メートルの地点の標高75メートル付近にあり、東南眼下に昭和6年に金銅製の蔵骨器と石櫃(国・重要文化財)が出土した遺跡があります。

発掘により外護列石が多角形を示すことが判明したため注目を集め、昭和59年(1984年)国及び兵庫県の補助を受け、未発掘部分の西側約200平方メートルの学術調査を実施し、古墳の全容が明らかになりました。

古墳の規模は径約13メートル、高さ約2.6メートルで墳丘は円墳状を呈し、周囲の外護列石が八角墳を意図した多角形です。列石は北から南へ傾斜し、墳丘裾に6面に巡っており、一部で2列から4列検出されましたが、基本的には2列のようです。

また南面する前庭部にはテラス状の張り出し部があり、(幅約8メートル、長さ約4メートル)その裾部にも葺石状にこぶし大の石を張り付けています。これらの遺構は古墳の前庭部における墓前祭祀の場と考えられています。

主体部は横穴式石室で、極めて特異な形をした羨道部を作っています。玄室部はやや持ち送りになっており、幅約1.3メートル、奥行き約3.4メートル、高さ約1.3メートルです。石室内の床には全面に板石が敷かれ、この中央部にベンガラによる赤色顔料が見られ、この場所に木棺があったと考えられます。

羨道部は幅約70センチ、長さ約1.2メートルで玄室部に挿入されたような形で構築されています。この幅では羨道の本来持つ機能は果たされておらず、痕跡的で、類例のない特殊な構造をしており、終末期の古墳を考えるうえで、貴重な例です。

石室内からは備前焼のすり鉢片が1点出土しただけで、はやくから盗掘されたようです。また、墳丘北面で1片、前庭部で2片の須恵器の坪と杯蓋が採取されていますが、古墳築造の決め手となる資料ではありません。

横穴式石室の形態、なかでも羨道部の特異な構造が大阪府松井塚古墳に類似している点や、墳丘勾配が高く、大規模な整形を行っていることなど総合的に勘案し、古墳の築造時期は7世紀の第二四半期前後であると考えられます。

6面の外護列石が八角形を意図したものかどうかによって、研究者の間にも見解の相違はありますが、基本的に八角形を意図したとみる研究者が多く、わが国の終末期古墳を考えるうえで、畿内における貴重な資料を提供することになりました。

八角墳は中尾山古墳や段ノ塚古墳、天武持統合葬陵等、天皇陵クラスの古墳が多く、築造時期も7世紀の第3四半期ごろに出現すると考えられてきましたが、近年群馬県や広島県、東京都などで八角墳と見られる古墳が見つかっています。

天皇陵など律令国家成立期の八角墳化については中央集権国家の成立過程で作られたとする論拠が主流ですが、その他の地方豪族が多角墳を作ることの意味は明確ではなく、今後の研究に待つべき点が多くあります。

多角形墳一覧(平成18年11月現在)

多角形墳一覧

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