宝塚の民話・第1集の2
鹿の鏡井戸(しかのかがみいど)
甲山(かぶとやま)のふもと仁川(にかわ)の下流に、鹿塩(かしお)という里があります。
奈良時代のころのことです。都のある奈良の春日大社には、各地域から鹿が神の使いの手伝いをするために集まっていました。
この鹿塩の里にも鹿がたくさん住んでいて、そのうちの一頭の雄鹿(おじか)が春日大社へかけつけていきました。
この年もまた、里の熊野神社のお祭りの日が来ました。お祭りの日には毎年、春日大社の使いが、お供物(くもつ)を持って来るならわしになっています。
祭り太鼓がなりだすと、太鼓の音に呼び寄せられたように、雄鹿と雌鹿(めじか)がやってきました。背中にいっぱいのお供物を積んでいます。雄鹿はこの里の鹿で、春日大社の神様の使いを受け、雌鹿を連れて久しぶりの里帰りです。
熊野神社の神様にお供物を渡すと、二頭の鹿は祭りの輪に加わりました。里の人たちは労をねぎらい、珍しいものをたくさんごちそうしました。
里の人々の歓迎を受け、謡(うた)い踊っているうちに雌鹿は旅の疲れが出たのでしょう。眠ってしまいました。
雄鹿は、寝ている雌鹿を起こすのはかわいそうと、、そのままにして、昔の友達に逢(あ)いに出かけました。
しばらくして目を覚(さ)ました雌鹿は、雄鹿がいないのでびっくりして、あちこち探しましたが、いくら探しても雄鹿は見つかりません。
知らない土地です。心細く、かなしい思いで神社の裏山まで来ると井戸がありました。のどの乾(かわ)きを覚えた雌鹿は、かけよって井戸を覗(のぞ)きました。
するとなんと、そこに雄鹿がいるではありませんか。喜びの声を一声あげると雌鹿は井戸に飛び込んでしまいました。水面に写った自分の姿を、探していた雄鹿と見間違(みまちが)えたのです。疲れていた雌鹿は溺(おぼ)れて死んでしまいました。
そのことを知った里の人たちは大変悲しみ、雌鹿のしかばねを丁寧(ていねい)に塩で包んで、
「かなしくも みるや雄鹿の みずかがみ」
という歌を添えて、春日大社へ送り返しました。
それからしばらくして、帰ってきた雄鹿は、雌鹿のことを聞いて大変悲しみ、自分のおろかさを嘆(なげ)き、悔(く)やみましたが、雌鹿は帰ってきません。食べ物も食べず、井戸の回りをウロウロするばかりです。
ある朝、里の人が行って見ると、井戸を抱くようにして雄鹿は死んでいました。
里の人たちは二頭の鹿の愛情の深さを思い、塚を建てて霊(れい)を弔(とむら)いました。
その塚を「鹿の一里塚(しかのいちりづか)」と言います。そして雌鹿を思い、お祭りには塩を一切使わなくなったことから、このお祭りを「しおたち」・「しおたち祭り」と呼ぶようになりました。そして雌鹿の覗き込んだ井戸を「鹿の鏡井戸」として今に伝えています。
また「鹿塩(かしお)」の名も鹿を塩付けにしたところから、付けられた名であるとされています。
挿し絵は、市内在住・在学の市民、児童・生徒から募集したものです。
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