宝塚の民話・第2集の2

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ID番号 1003707 更新日  2023年11月17日

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木接太夫(きつぎだゆう)

いまから四百年ほど前のことです。豊臣秀吉の家来に山本荘司(やまもと そうじ)(注1)・坂上頼泰(さかうえ よりやす)という武士がいました。この武士は、しばしば先陣に加わって、手柄(てがら)をたてた武将で、多くの活躍をしています。
しかし、歳をとってからは、争いごとから逃れ、静かに暮らしたいものと願い、故郷の山本郷に隠居(いんきょ)しました。隠居してからの頼泰は、名を山本膳太夫(ぜんだゆう)と改め、好きな花や草を相手に、土いじりの毎日を過ごしていました。

何事にも研究熱心なうえに冒険心の強い彼は、「野に咲く花をもっときれいで、長く咲かせることはできないものか。木の実をもっと早く実らせる方法はないものか」などと、常々考えていました。
ある日のこと、裏山を散歩していると、大きな古い大木に違った種類の木が生えているのを見つけました。「そうだ、甘い小さな実のなる木に、あまりおいしくないが、大きな実のなる木を一緒にしたらいい。赤い花と白い花を掛け合わせたらどうなるだろう」などと思いつきました。
思いたったら、結果が見えるまで実行しないと気のすまない膳太夫です。失敗を繰り返しながら、何年かたちました。

木接太夫の挿し絵

ようやくのことで、普通の木よりも早く実がつき、大きくて味の良いものができるようになりました。また、ある木に違う木をそえて一本の木にすることにも成功しました。この方法は「接ぎ木(つぎき)」と呼ばれ、植物の品種改良に利用され、膳太夫の名は「接ぎ木の名人」として広く伝わりました。
時の太閤(たいこう)・豊臣秀吉は、もともと農民の出身だったからでしょうか、草木をこよなく愛していました。
そこで、山本村からも、時々献上(けんじょう)されていたみごとな盆栽(ぼんさい)や花木を愛でていましたが、たまたまその中に膳太夫が改良した珍しい鉢を手にした秀吉は、この鉢植えを作った膳太夫が、もともと、自分の家来だった頼泰と知り、大変喜びました。
そして、接ぎ木の成功をほめ、膳太夫に「木接太夫」の称号(しょうごう)を与え励ましました。
また、その頃、大阪や京都では贅沢品(ぜいたくひん)の売買が禁じられていましたが、植木だけは、特別の配慮(はいりょ)で、売買が許されたということです。
現在、阪急の「山本駅」のすぐ西には、膳太夫をたたえ、植木興隆(こうりゅう)の基礎を作った人として、大正元年に「木接太夫」の彰徳碑(しょうとくひ)(注2)が建てられました。

注釈
(注1)荘司(そうじ)
貴族などの私的な領有地である荘園を管理する地方長官。

(注2)彰徳碑(しょうとくひ)
功徳(くどく)をほめたたえ、世に顕彰(けんしょう)するための碑石。

挿し絵は、市内在住・在学の市民、児童・生徒から募集したものです。

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