宝塚の民話・第2集の3
中筋村の飢饉(なかすじむらのききん)
昔は年貢(ねんぐ)といって農作物(のうさくもつ)で税(ぜい)を納(おさ)めていましたので、天候が不順(ふじゅん)な年には農民たちは大変困ったものです。
慶長七年(1602)の秋は大変な不作(ふさく)でした。旗本(はたもと)の渡辺氏(注1)がおさめていた中筋村も納める年貢に困っていました。
代官(だいかん)からは毎日のように「粟(あわ)、稗(ひえ)でも良いから納めなさい」と矢のような催促(さいそく)が来ます。「粟や稗までも納めたらわれわれはいったい何を食べたらいいんだ。全員が餓死(がし)してしまうではないか」。村人たちは代官所へ行き、何とか一年待ってもらいたいと、願い出ましたが聞き入れられません。
困りはてていたその時、たまたま村人のひとりが、米俵(こめだわら)を積んだ舟が淀川筋(よどがわすじ)を登っていくのを見かけました。
聞くところによると、その米は姫路藩主・池田輝政(いけだ てるまさ)(注2)のおさない息女がなくなり、その百か日の法事の御供養米(ごくようまい)として、京都の法華宗(ほっけしゅう)(注3)・本禅寺(ほんぜんじ)へお届けする品だということでした。
そのことを知ると村民の代表達が本禅寺へはせさんじ、事の次第を話し「村民をお救い下さい」と嘆願(たんがん)しました。
話を聴いた寺の日邵上人(にっしょう じょうにん)は「お困りなのはよくわかったが、法華宗の宗義(しゅうぎ)として他宗のものには米一粒、銭を一銭たりとも援助することはできないのです。たとえ何人かの法華宗のものがいたとしても、村全体のために米をわけてやる訳にはいきません」との返答です。
その返事を聞いて急いで村へ戻ると、村人すべてを集めて訳を話しました。「食べるものがなくなり、子どもたちまで死なせるくらいなら」と、今度は村民全員で本禅寺へ行き、「村に住む者は皆、法華宗に帰依(きえ)します。これは子々孫々まで変わることはありません。このたびの願い、どうぞかなえてください」と申しあげ、お願いしました。そして気持ちの変わらない証(あかし)として、
一 中筋村に暮らすものは全員、法華宗を守り、子々孫々まで法灯(ほうとう)をかかげます。
一 他の宗派から宗旨がえを求められても応じません。
一 前の宗派へ隠れて詣でることもしません。
という証文をお寺に差し出しました。
ようやくのことお米を融通(ゆうづう)してもらい、年貢を納めることができた中筋村は、全員あげて法華宗の陣門流(じんもんりゅう)に帰依しました。
それからしばらくして、京都に詣でるには道のりが遠いことから、古くからあった村の寺を建て直しました。その寺の名は、亡くなった池田輝政の息女の法名「縁了院殿妙幻叔霊(えんりょういんでん みょうげんしゅくれい)」の妙幻に因み、「妙玄寺(みょうげんじ)」としました。その上、村の角には「南無妙法蓮華経 法界(注4)」と刻まれた法界石(ほうかいせき)を建て、村の宗派が法華宗であることを明らかにしたということです。
注釈
(注1)渡辺氏(わたなべし)
徳川幕府の旗本の一族。
摂津川辺・嶋下・豊島などの各郡を治めた。なかでも渡辺勝や、その子・正の時代が有名で、従五位下を賜わる。
(注2)池田輝政(いけだてるまさ)
1564~1613
安土桃山時代の大名。信長・秀吉に仕え美濃十万石の大名となり、のち三河吉田に移封される。関ヶ原の合戦で徳川方につき、戦功により、播磨領主となり、姫路城を築く。
(注3)法華宗(ほっけしゅう)
別名、日蓮宗ともいう。
鎌倉時代中期に日蓮が開いた宗派。仏法の真髄は法華経にあるとし「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の題目を唱えれば救われると説く。
(注4)法界(ほうかい)
もと仏教用語で意識の対象となるものの意味をさす。この場合は、法華経の及ぶ境界を示す。
挿し絵は、市内在住・在学の市民、児童・生徒から募集したものです。
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