宝塚の民話・第1集の5

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ID番号 1003699 更新日  2014年11月10日

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小林の平林寺と如一尼(おばやしのへいりんじとにょいちに)

小林の平林寺と如一尼の挿し絵

平安時代のはじめの頃のことです。
一人の尼僧(にそう)が甲山(かぶとやま)の感応寺(かんのうじ(注1)「神呪寺」)にこもり、仏の教えを学んでいました。尼の名は如一尼(にょいちに)と言います。
ある晩、夢の中に天女が現れて、「ここより東の方に聖(せい)なる所があります。あなたはその地へ行って住むべきです。」と、お告(つ)げになりました。
翌日(よくじつ)、夜の明けるのを待って東へ歩いて行くと、ふるびたお寺がありました。それは、奈良時代に聖徳太子が建てられた「平林寺(へいりんじ)(注2)」でした。
「おお、何と理想の地であろう。ここに全ての民が仏教を学べる伽藍(がらん)を建てたい。」如一尼は深くそう思いました。そして庵(いおり)を建てて修業(しゅぎょう)に入りました。
いく年かが過ぎたある日の事です。如一尼が一心に祈りを捧げ(いのりをささげ)ていますと、西方の峯(みね)に一筋の光がさし、雲のたなびく中に一体の神がお立ちになりました。
「われは、荒神(こうじん)(注3)なり、一心に民の為(ため)の伽藍(がらん)を建てたいと念(ねん)ずるそなたは、すでに菩薩(ぼさつ)の生まれ替(か)わりである。そなたの望みはかなえられよう。」と約束(やくそく)されました。
荒神の予言(よげん)で、如一尼は「如一禅尼(にょいちぜんに)」となりました。

ある朝、如一禅尼は、一人の娘が一心にお参りをしているのに気付きました。娘は雨の日も風の日も休まずにお参りを続けています。
とうとう如一禅尼はその娘に声をかけました。「何かお困(こま)りのことでもあるのですか」というと、娘はビックリして、「父が仕事(しごと)もせずにお酒ばかり飲み、母を困らせております。そんな父を救っていただきたくて、お参りをしております。」と打ち明けました。
「それは良いことをなさっておられます。一日も早く御父上(おちちうえ)が立ち直られますように、私と一緒に学びませんか。」
「いいえ、私みたいな身分のないものが………」
「御仏(みほとけ)の道に身分などありません。私の師(し)、弘法大師(こうぼうだいし)(注4)様もそのようにおっしゃっておられます。」

如一禅尼の導(みちび)きと教えは深く、多くの人達が救われ徳(とく)の高さが広まりますと、人々は平林寺(へいりんじ)を訪れるようになりました。
そして、それらの大勢(おおぜい)の人の力によって大伽藍(だいがらん)が建ちました。
如一禅尼は、その後も大衆(たいしゅう)にわかるように仏の道を説(と)きましたので、平林寺の名は益々(ますます)広まり、「一度はお参りをしたい」と、旅人の往来(おうらい)もはげしくなり、小林(おばやし)の里は大変栄(さか)えたということです。

また、仏教を学ぶ僧侶達(そうりょたち)も如一禅尼の教えにふれたいと、全国から集まって来ました。それで、仏典(ぶってん)を学ぶ人々の宿舎として三十余坊(よぼう)の塔頭(たっちゅう)が建ち並(なら)び、平林寺は大寺院(だいじいん)になったということです。

注釈
(注1)神呪寺(かんのうじ)
西宮市の甲山の中腹にあるお寺。
本尊は木造如意輪観音菩薩。

(注2)平林寺(へいりんじ)
聖徳太子の開基とされる真言宗のお寺で、本尊は釈迦如来坐像。
石造路盤とともに、宝塚市指定文化財。四ケ寺の塔頭を持つ。

(注3)荒神(こうじん)
三宝荒神の略。仏・法・僧の三宝を守護する神。
火は不浄を滅するところから竈(かまど)の神ともされる。怒りの相を表す。

(注4)弘法大師(こうぼうだいし)
774~835。
平安時代初期の真言宗を開いた僧侶。
804年唐に行き、帰国後高野山に金剛峰寺を開き、真言密教を広めた。
空海とも呼ばれる。

挿し絵は、市内在住・在学の市民、児童・生徒から募集したものです。

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