宝塚の民話・第2集の8
坂武者・怪力頼継(さかむしゃ・かいりきよりつぐ)
今から九百年ほどむかし、山本を開いた坂上右衛門少尉頼次(さかのうえ うえもんのしょうい よりつぎ)(注1)の三代目に頼継(よりつぐ)(注2)という若武者がいました。
頼継は、身の丈六尺(約1.8メートル)もある大男で、怪力の持ち主でした。
神社のお祭りの力比べでは、頼継をこえる怪力のもち主が現れるかが問題です。
祭りの二日目には力比べを見ようと近郷(きんごう)、近在(きんざい)からたくさんの人々が集まってきます。早朝からこどもの部、青年の部と進んで、力自慢(ちからじまん)ばかりが競いはじめました。
「どうだろう。今年こそ頼継に勝つ者が現れるだろうか」「いやいや、やっぱり頼継殿であろう」などと勝負の行方(ゆくえ)を楽しんでいます。
祭りも終わりに近づき、頼継が現れるといっせいに歓声(かんせい)がわきます。頼継は競技に使われていた石には目もくれず、ゆうゆうと、そばにあった大きな庭石に近づくと、軽々と持ち上げてしまいました。なんと、その石の重さは七石(約280キログラム)もあったというのですから、観衆はただただ、頼継の怪力ぶりに舌をまいたということです。
そんな頼継ですから、武勇伝(ぶゆうでん)もたくさん残っていますが、永承六年(1051年)の後冷泉天皇(ごれいぜい てんのう)(注3)の時代、陸奥の国(むつの くに)(注4)の豪族、安倍頼時(あべの よりとき)(注5)に不穏(ふおん)の動きが見られました。
ほっておけぬと、朝廷は「頼時が謀反(むほん)をくわだて、衣川の館(ころもがわのやかた)(注6)にたてこもっておる。すぐに討ちのめせ」と源頼義(みなもとの よりよし)に命じました。
怪力をほこる坂上頼継もその先陣(せんじん)に加わり、戦場へと向かいましたが、安倍一族の守りが硬く、なかなかの苦戦を強いられました。
時の源氏の大将、八幡太郎義家(はちまん たろう よしいえ)(注7)も戦場におもむき、安倍頼時の子・貞任(さだとう)(注8)の軍勢と一戦をまじえました。なかなかの兵揃(つわものぞろ)いの貞任の軍勢に、義家の家来達はことごとく敗れ、義家も「これまでか」と覚悟を決めました。
その時おどり出たのは坂上頼継です。頼継は、敵の兵をバッタ、バッタと切り倒して行きました。なんとこの時、大将の首だけでも十八もあったということです。
頼継の働きで、九死に一生を得た義家は、勝ち戦さとして帰ることができました。
時の将軍頼義は、坂上頼継の働きをほめたたえ、右衛門少尉(うえもんの しょうい)に任じました。頼継のこの時の働きは後の世まで、「坂武者」とほめたたえられ、語りつがれました。
頼継は晩年は山本の郷(ごう)に住まいし、歳をとってから仏門に入り「大蓮坊(だいれんぼう)」と号し、花木(かぼく)を愛し、八十三才の高齢でこの世を去ったと伝えられています。
注釈
(注1)坂上右衛門少尉頼次(さかのうえうえもんしょういよりつぎ)
平安時代後期の武将。坂上田村麻呂を祖とする坂上党武士団の祖先。多田の荘内の山本地域を治めた。多田源氏の御家人。
(注2)坂上頼継(さかのうえよりつぐ)
坂上頼次の子孫といわれる。出家して大蓮坊となのる。花園をつくり、植木を広めたことでも有名。
(注3)後冷泉天皇(ごれいぜんてんのう)
1025~1086 第七十代天皇。関白藤原頼通の全盛時代での天皇。宇治・平等院などを行幸した。京都の円教寺に陵がある。
(注4)陸奥の国(むつのくに)
現在の青森県や岩手県の一部にあった国名。
(注5)安倍頼時(あべのよりとき)
?~1057 平安時代後期の陸奥の豪族。11世紀中ごろに胆沢など六郡を平定。衣川において、前九年の役をおこし、鳥海柵で敗死した。
(注6)衣川(ころもがわ)
岩手県西磐井郡平泉町にあったと推定される砦(柵)のあった場所。
(注7)八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)
1039~1106 平安後期の源氏の武将。前九年の役の武功により、出羽守に任じられる。のち大江匡房に師事し、後三年の役でも武勲をたて、在地領民の信望を集める。
(注8)安倍貞任=あべさだとう
1019~1062 安倍頼時の息子。前九年の役では源頼義の軍を破ったが、康平五年(1062)に頼義の軍に破れ、戦死した。
挿し絵は、市内在住・在学の市民、児童・生徒から募集したものです。
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