宝塚の民話・第2集の13

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ID番号 1003715 更新日  2014年11月10日

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美女丸と幸寿丸(びじょまるとこうじゅまる)

平安時代に多田院を興した、多田源氏(ただげんじ)の頭領(とうりょう)源満仲(みなもとの みつなか)の末の子に美女丸(びじょまる)という子どもがいました。この美女丸、名前に似合わず悪さのし放題のいたずら坊主です。困り果てた父、満仲は波豆(はず)に住まいを構え村人達からも尊敬(そんけい)されている弟の満政(みつまさ)に「何とか武将としてたてるよう、躾(しつ)けてはくれまいか」と美女丸を預けました。しかし、美女丸の行いは少しもよくなりません。
そこで叔父(おじ)の満政はとうとうあきらめ、「あれこれ心をくだいてみたが、私の手にも負えない。あとは中山寺で僧侶の修行をさせるしかあるまい」と、美女丸を中山寺に預けました。
中山寺は多田源氏の深い信仰のあったお寺で、これまでにもお堂の修理や寄付をおこなったりと、縁の深い寺だったのです。
中山寺に入れられた美女丸はしばらくの間はお寺の生活にもなれず、ものめずらしさもあり、静かにしていました。しかし、一月もしないうちに、前より一層わがまま放題のふるまいで、僧達を困らせはじめました。読書や習字は全くしませんし、仏事にも出なくなりました。
「われは多田源氏の御曹子(おんぞうし)(注1)、摂津守(せっつのかみ)の子ぞ」と言い、父や叔父の目が届かなくなったことを幸いに、わがまま放題。お寺の僧達もほとほと困り果て、美女丸を多田院へ引き取るよう懇願(こんがん)しました。

この様子を聞いた満仲は、家来の藤原仲光(ふじわらの なかみつ)を呼びよせ「美女丸はすでに一四歳、そろそろ元服(げんぷく)してもよい年ごろ、中山寺へ行き美女丸をつれ帰れよ」と命じました。

仲光が迎えにいくと、美女丸は「父は私を武門(ぶもん)に入らせようとしているのであろう」と思い、おとなしく多田の館へ帰りました。
「父上お久しゅうございます」
満仲はわが子美女丸がたくましい身体になっているのにおどろきを感じましたが、「美女丸、体がおおきくなったからといって大人とはいえまい。御前が身に付けたものが、いかなものかをみてやろう。まず、経(きょう)を読んで見よ」と、お経をさしだしました。
ところが美女丸はしどろもどろで、一字も読めないのです。
「それでは、歌はどうじゃ」と歌を詠ませましたが、これも全くだめです。
「ならば管弦(かんげん)ぐらいは」と楽器を進めましたが、これもできません。
激怒した満仲は、刀を手に「おのれのような奴は生きていても一族の名を汚すだけだ。成敗(せいばい)いたす」と、美女丸を切りすてようとしました。
その時、「今しばらくおまち下さい。この場での処刑(しょけい)は、お屋敷をけがしまする」と同席していた仲光が、必死にとどめました。
満仲は手にした刀を投げだし、「この刀で美女丸を処刑せよ」と言い捨てて、奥に引き上げていきました。

美女丸と幸寿丸の挿し絵

ひとまずこの場をおさえた仲光は、美女丸を自分の館へつれ帰りました。しかし、いくら主君の命とはいえ、しおれている美女丸の姿を見ると、首をはねる気持ちにはなれません。
「私がもう少し若く、若殿(わかとの)の歳に近ければ身代わりになったものを」と思案(しあん)にくれていると、事の次第を聞きつけた仲光の子、幸寿丸(こうじゅまる)が父の部屋へ進み出て「美女丸様は源氏の御曹子であられます。若殿と私は同世代です。若殿の身代わりにわが首を殿様にお差し出し下さい」と申し上げました。
仲光は、わが子幸寿丸の申し出を聞き、心が乱れましたが、「主君(しゅくん)の身代わりになるは武家(ぶけ)の習い。よくぞ申した」と彼の決意をほめたたえたものの、わが子との別れは不憫(ふびん)でなりません。
しかし意を決して翌日、仲光は幸寿丸に最後の別れをし、「許せ」と言うなり首を刎(は)ね、その足で多田の館へ行き、主君の満仲に「美女丸様の御首です」と差し出しました。
それを見た満仲はさすがにわが子の顔を見つめることもできず、無言のまま奥に引き下がりました。

一方、さすがに美女丸も幸寿丸が自分の身代わりになり命をすてた事を知ると、自分のおろかさを悔い、深く反省し、仲光にあやまりました。
「お二人にはどれほどの感謝をしても尽くせません。私ははじめて人の命のはかなさを知りました。お二人からいただいた命は万人のためにささげたく、これから比叡山(ひえいざん)(注2)へ入門します」と涙ながらに述べました。

比叡山へ行き仏門に入った美女丸は、まじめに厳しい修業に励むとともに、朝な、夕な幸寿丸の菩提(ぼだい)(注3)を弔うことを忘れませんでした。
数年の月日が流れ、師の恵心(けいしん)のもとで立派な僧侶となった美女丸は、名を源賢(げんけん)としていました。
それからしばらくして、恵心が弟子達を連れて、多田院を訪ねることがありました。
満仲は恵心一行を大いに歓待(かんたい)し、仏の教えを乞いました。
仏事が終わると、恵心は「満仲殿にお目通りさせたい者がございます」と言い、源賢を紹介しました。
何か気になるものを感じていた満仲は、源賢の立派な姿を見て、ハッとしました。「おお、これは亡くなったはずの美女丸ではないか」と、不思議な出来事にとまどっている満仲に恵心はことの次第を話し聞かせました。満仲はこれを聞き、とめどもなく涙を流し、すぐに家来の仲光を呼びました。

「大事なそちの息子、幸寿丸の首を刎ねさせたとは……、許せよ」深く詫び、仲光と幸寿丸の忠義心(ちゅうぎしん)をほめたたえました。
そののち、満仲は自分のした事を悔い、仏門に入る決心をしたということです。
また、源賢が亡くなった後、美女丸と幸寿丸のお墓は満願寺(まんがんじ)(注4)に並んで葬られ、まつられています。

注釈
(注1)御曹子(おんぞうし)
源氏の嫡流(ちゃくりゅう)の子息をさす敬称。平家では「公達」という。

(注2)比叡山(ひえいざん)
滋賀県大津市坂本にある天台宗の総本山。延暦寺(えんりゃくじ)がある。最澄(さいちょう)の開祖。

(注3)菩提(ぼんのう)
煩悩(ぼんのう)を断ち、不生・不滅の真理を悟る姿で、善徳を積んだ者の霊を示す。

(注4)満願寺(まんがんじ)
川西市にあり、奈良時代に勝道上人が開いたと伝える真言宗の古刹(こさつ)。多田源氏の帰依を受け繁栄した。本尊は千手観音菩薩。

挿し絵は、市内在住・在学の市民、児童・生徒から募集したものです。

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